浅田真央は何故トリノ・オリンピックに出られないのか?

1:ここに至る事情

1-1:浅田真央とは?

 フィギュアスケート、女子シングルの選手です。フィギュアスケートは通常私たちがテレビで見る競技会(シニア)の他に、子供たちによるジュニア競技があるのですが、浅田選手はジュニア競技で圧倒的な戦績を納め、今年シニアの競技会にも参加するようになりました。日本の女子シングルの将来を担って立つべき逸材です。

1-2:何で騒ぎになっているの?

 浅田選手は国際スケート連盟の規定により、トリノ・オリンピックに出場する権利がありません(理由は後述)。ところが先日行われたグランプリ・ファイナルという競技会で、今年(昨シーズン)の世界選手権の勝者であるイリーナ・スルツカヤ選手を抑えて、浅田選手が優勝してしまったのです。

これを見た人たちの中には、浅田選手をトリノ・オリンピックに出せば金メダルが取れるんじゃないかと考える人もいました。ところが、競技を統括する国際スケート連盟のチンクワンタ会長も、日本国内のフィギュアスケート競技の総合ディレクターのような立場である日本スケート連盟の城田憲子さんも、浅田選手の為にルールを変更することには消極的でした。

これに不満を持つ人たちが、日本スケート連盟や首相官邸、国際オリンピック委員会などに嘆願メールを送って浅田選手をトリノ・オリンピックに出そうという運動を始めたのです。

2:様々な論点とフィギュアヲタの言い分

2-1:何故、浅田選手はトリノ・オリンピックに出られないの?

 国際スケート連盟の規定として、オリンピックに出場するには、オリンピックの前の年の71日までに15歳になっている必要があるからです。71日とは、フィギュアスケートの新年度が始まる日です。

2-2:何故、そんな規定があるんですか?

 これにはフィギュアスケート界独特の事情が関係しています。

ご存じのように、日本ではフィギュアスケートはマイナーなスポーツです。しかしアメリカ合衆国では、アイスショーと呼ばれるフィギュアスケートの興行が極めて盛んで、アイスショーの人気者は結構な金額を稼ぐのです(一方、アマチュアのフィギュアスケート選手は、ごく一部のトップ選手を除くと、決して経済的に恵まれている人々ではありません)。そして、アイスショーで人気者になる一つの道として、オリンピックや世界選手権という最高レベルの競技会で名前を売るというものがあるのです。さらにつけ加えておくと、アイスショーとアマチュアの競技会では、要求される技術の難易度や、プログラムを滑る為に必要な体力という点で、大きな差があります。楽なのはアイスショーです。

 ですから、選手や選手の家族の中には、オリンピックや世界選手権をさっさと勝ってプロに転向してしまった方が良いな、と思う人も出てくるわけです。こうした風潮を象徴するのが、長野オリンピックで優勝したタラ・リピンスキー選手でした。彼女は今回の浅田選手と同じように特例で世界選手権に出場して優勝したのですが、続くシーズンの長野オリンピックで優勝するとさっさとプロになってしまったのです。世界選手権とオリンピックという2大タイトルを手に入れた以上、もう辛く厳しいアマチュア競技は充分だと思ったのかもしれません。

 こうした風潮に歯止めをかけるために設けられたのが、フィギュアスケート独自の年齢制限です。

2-3:でも、プロになるかどうかは個人の自由でしょ?

 その通りです。しかし、14歳や15歳で最高レベルの競技会に勝つ為には、桁外れの才能に加えて幼い頃からの鍛錬が求められます。そうした時期の子供たちが、親や周囲の要求に毅然として対応し、自らの心身の健康を守る為の主体性を維持出来る可能性はさほど大きくありません。もちろん浅田選手のように、滑る事を楽しんでいるうちにとてつもないレベルに達してしまったという例もあるでしょうが、親や周囲の大人がアイスショーでの収入やマスメディア露出に伴う収入目当てで子供に厳しい訓練を課してしまうおそれもあります。

 国際スケート連盟の年齢制限規定には、こういった状況を未然に防ぐという意味合いもあります。

2-4:じゃあ、何でグランプリ・シリーズやグランプリ・ファイナルは年齢制限が緩いの?

 はっきりした理由はわかりません。オリンピックや世界選手権に較べると、競技会のレベルや知名度が明らかに落ちる為、グランプリ・シリーズやグランプリ・ファイナルを勝った程度では、プロに転向しても人気者になれる可能性が低いからかもしれません(以前からのフィギュアスケート・ファンが浅田選手の快挙にも冷静なのは、グランプリ・ファイナルの位置づけや権威を知っているからということも言えます)。

たしかにグランプリ・シリーズとオリンピックや世界選手権で、年齢制限が異なっていることは、今回のような混乱を引き起こしかねないので、将来的には規定変更の議論も出てくるでしょう。しかし、それはあくまでも、次のシーズン以降どうするかという議論であり、今シーズンは既に連盟としてルールに合意している以上、シーズン途中での規定変更はあり得ません

2-5:チンクワンタ会長も、「将来的には、年齢制限は14歳以上という形になるんじゃないか」と言ったそうですが。

 それはチンクワンタ氏個人の意見であり、連盟の総会で可決されたルールではありません。チンクワンタ氏個人の意見は連盟のルールを無効化しません。

2-6:どっちみちオリンピックや世界選手権に出られないのに、何でグランプリ・シリーズに出したんだよ!

 なぜグランプリ・シリーズに出したのか、明確なところはファンにはわかりません。が、城田強化部長の「経験を積ませたかった」という発言から推測できることはあります。

 ジュニアでチャンピオンになり、満を持してシニアに進んだのはいいけれど、なかなか結果が出ない・・・・ということは毎年のように起こっています。荒川選手のように、数年後にトップ選手になれればまだいいのですが、特に女子の場合、身体の成長によってバランスを崩し、不調になる時期と重なる選手が多いせいか、以降ほとんど名前を聞かないということも珍しいことではありません。

あらゆる意味で規格外の選手である浅田真央にそのような心配は無用かもしれませんが、実際にシニアの大会に出てみなければわからないことはたくさんあります。東京で開催される2007年の世界選手権で上位を期待される浅田選手であるからこそ、シニア1年目は五輪の重圧とは無縁の状態でシニアの雰囲気や上位選手との戦いを体験し、来るべき06-07シーズンの東京世界選手権では、新世代の女王として花開いてほしい。是非についての論議は別として、このような意図のもとグランプリ・シリーズに派遣されたのではないかと思われます。

山田コーチの発言も、これを裏付けています。

――でも今は、4回転をはじめいろいろな挑戦をそれほど気負わずできている。それは今年、彼女がオリンピック出場権がないから、という事情もあるのでしょうか?
山田 真央はオリンピックがないから気が楽……それはほんとにそう思います。これがもしオリンピックに行ける年齢だったら、やっぱりこんなゆったりとした 気持ちで、今、真央とは接していないでしょう。今年はオリンピック行けるんだ! がんばらなきゃ! がんばって3番目に入ってトリノに行きたい! そう 思ってやっているでしょうね。これもやらなきゃ、あれもやらなきゃって、大変だったと思う。でも今年はまったくオリンピックと関係ないので、真央も私もマ イペースでいられる。楽ちんですよ。

――行けなくて残念、という気持ちは?
山田 もちろん残念は残念です。でも、3ヶ月遅く生まれたことを悔やんでもしょうがない()。ここはいい方向で考えて。よかったね、今年はリラックスしながら練習できるからって、思うようにしています。だから次のオリンピック、4年後まで……まあ、怪我が無いように、すくすくと育ってくれれば、と思いますね。

http://iceblue.cocolog-nifty.com/figure/cat2982099/より一部引用)

3:城田憲子氏について

3-1:城田憲子って誰ですか?

 役職は日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長です。日本スケート連盟のフィギュアスケート部門の選手育成の最高責任者です。

3-2:具体的には何する人?

 日本人選手が競技会で最高の力を発揮出来るようにするのがこの人の仕事です。ありとあらゆる犠牲を払い、大きなリスクを背負ってでも、日本にオリンピックの金メダルをもたらすのが仕事ではありません。

 その仕事の内容は多岐にわたります。どの選手をどの国際競技会に出すかを決めるのもこの人の仕事ですし、選手とコーチ、振付師の間を仲介するのも重要な仕事です。例えば村主章枝選手は一時期、佐藤信夫コーチの元を離れてみたのですが、結局成績は上向きませんでした。その時に村主選手と佐藤コーチの間を取りなして再入門出来るよう取りはからったのも城田さんです。ちなみに佐藤コーチは、以前の自分なら村主を赦せなかっただろうと明言しています。また、長野県の野辺山で毎年行われている「全国有望新人発掘合宿」や「強化合宿」を通した選手全体の底上げへの取り組みも指揮しています。

3-3:日本スケート連盟の城田憲子という人がとにかく悪いと聞いたけど?

 たしかに城田さんは完全無欠のディレクターではありません。特にマスコミへの対応はド素人と言われても仕方が無いと思います。城田さんと選手の二人の間では了解が成立していても、事情を知らない第三者が聞くと目をむくような直接的な発言をしてしまうこともあります。自分の発言がマスコミにどう利用されるかとか、内部事情を知らない人が誤解するんじゃないかとかいう配慮は少ない人です。しかし、現在の、黄金時代と言われるほどに分厚い選手層を創り出した最大の功労者が城田さんであることも事実です。

3-4:城田憲子さんが浅田選手のコーチと犬猿の仲だから、嫌がらせをしているというのは?

 城田さんと山田コーチの人間関係が実際のところどうかは、本人たちにしかわかりません。ですが、城田さんの仕事は山田コーチと対立しません。山田コーチが優秀な選手を育てれば、それは城田さんの業績にもなるということを忘れてはいけません。ソルトレイク・オリンピックでは佐野稔コーチに師事していた荒川静香選手を落として、山田コーチに師事していた恩田美栄選手を出したことも忘れてはいけません。

3-5:城田氏は村主や荒川のコーチで自分の手柄にならない浅田選手を冷遇していると聞いたけど?

城田さんは強化部長として日本人選手全員の面倒を見、強化をはかる立場であり、過去も現在も特定の選手のコーチをしたことはありません。強化部の仕事としてなら、浅田選手は幼少時からその才能を見込まれて全日本への特別推薦も行った他、連盟主催のエキシビション、海外派遣などしています。胸を張って強化部の手柄(もちろんそれだけじゃありませんが)だといえる選手です。

3-6駄目もとで嘆願書を出すくらい、やってくれても良いじゃないですか!

 事態はそう単純ではありません。まず、フィギュアスケート界が、残念ながら各国の思惑や政治的圧力、裏取引などを完全には排除出来ていない世界であるということをアタマに入れておいてください。それは端的にはルールづくりや審判の点数の甘辛という形で、競技に影響を与えます。

 さて、ご存じのように現在の日本女子シングルの陣容は、掛け値なしに世界最高です。しかし、どちらかと言えば後発でしかも白人系ではない国である日本のこのような躍進が、世界のどこからも好意的に見られているとは言えません。日本のファンの中には、昨年の荒川選手の世界選手権制覇以降、目に見えて日本人選手へのジャッジが辛くなったと考えている人もいます

 そのような中、新たに浅田選手のような極めて高い能力を持つ選手を、特例でオリンピックに出せと日本から言い出したとしたら、日本への風当たりはさらに強いものになり、日本人選手に不利なルール変更や辛いジャッジングが出てくる可能性も、皆無とは言い切れません。長年フィギュアスケートを見てきた人ならわかることですが、実力差が紙一重の選手たちが、大舞台でつばぜり合いを繰り広げた場合、審判員の虫の居所が決定的な役割を演じるのです。これはフィギュアスケートでは、本当に洒落にならない話なのです。

まあ、それはあくまでも可能性であり、しかも藪の中で行われる類のものですから、その存在が明確な形で立証されることはないでしょう。しかし、実際にオリンピックで競技に臨む選手たちが、ジャッジに対して疑心暗鬼に陥り、実力を発揮出来なくなる可能性は、明確に増大します。毎回オリンピックの度に、ジャッジへの不満を口にする選手が出る競技が、フィギュアスケートなのです。

 加えて、嘆願書を出すということは、日本スケート連盟が自分たちよりも浅田選手を重要なものと考えているという意味に受け取られるでしょう。そのような心境の選手が、持てる実力を出し切る可能性は小さいと言わざるを得ません。日本スケート連盟は浅田選手の為にあるのではありません。3人の代表選手に最高の演技が出来る環境を用意するのが、日本スケート連盟の役割のはずです。

 一言で言えば、期待出来るリターンに対して、発生するリスクが巨大過ぎるのです。

3-7:でも、真央なら勝てるでしょ。

 グランプリ・ファイナルでは、あわただしい日程の遠征で調子を落としたスルツカヤ選手と対戦して、10点未満の点差でした。これは審判の気分次第で簡単にひっくり返る点差ですし、浅田選手もスルツカヤ選手もアウェーの試合だった中国杯では、スルツカヤ選手が10点以上も浅田選手を上回っています。そもそもトリノでメダルを狙うような選手は、グランプリ・ファイナルの時点でコンディションをピークに持ってくるような調整をしません。プルシェンコ選手はグランプリ・ファイナルに出る気が最初から無かったですし、クワン選手は参戦さえしませんでした。グランプリ・シリーズでは浅田選手に遅れを取ったコーエン選手も、本番ではあんなものでは無いはずです。

 加えて、トリノでは大観衆の圧倒的な声援というホーム・アドバンテージも失われます。しかも、浅田選手がトリノに出る為には日本スケート連盟からの嘆願、理事会、総会という「めんどくさい」手続きを各国の協力を得て行わなければなりません。これはジャッジングにおいて浅田選手(のみならず日本代表選手全てに)辛い点数が出る可能性を増大させます。このようなことを考え合わせると、仮に浅田選手がトリノに出たとして、彼女が金メダルを持ち帰る可能性は、さほど大きなものではないでしょう。

3-8:事情はだいたいわかったけど、城田部長のあの曖昧な発言は何なんだよ!

 3-3でも言及しましたが、城田さんははっきり言えば口下手な人です。常に冷静沈着な聖人君子でもありません。多少は大目に見てあげる必要があります。また、特に国際スケート連盟について口を濁しているのは、日本スケート連盟の立場でははっきり言えないことがあるからです。すなわち「国際スケート連盟に楯突いたら日本人選手に不利なルール変更や、辛いジャッジングという形で報復を受けるかもしれない。」という一言です。これは城田さんの立場では口が裂けても言えませんが、長年フィギュアスケートを見てきた人間なら、察していることです。

4:浅田選手のトリノ出場について

4-1:それで、結局浅田選手はトリノに出てはいけないの?

 たしかに浅田選手の能力は現在でも極めて高く、既にシニアのトップ選手に迫るものがあります。ですから、浅田選手個人について言えば、年齢による出場制限は合理的根拠を持ちません。しかし、フィギュアスケートという競技全体を考えると、浅田選手の特例を認めないことには合理的な根拠があります

 というのは、たしかに浅田選手は色々な意味で規格外の選手であり、トリノ・オリンピックに出たからといって競技寿命を縮める可能性はさほど大きくありませんけれども、あるジュニア選手がそういった桁外れの天才なのか、あるいは異常な早期教育を施されたいびつな選手なのかを判定する合理的な基準が設定できない以上、ここで浅田選手の特例を認めると、心身に過大な負担をかけて育成された選手であっても、グランプリ・シリーズで浅田選手と同等の成績を上げたならば、オリンピックや世界選手権に出さざるを得なくなるからです。

 将来的に、例えば複数のスポーツ医学の専門家による診断書があれば年齢制限を解除出来るようにするなど、より合理的な制度が考案される可能性はありますが、そういった方策が未だ具体的な議論の場に出てきていない段階で、超法規的に浅田選手の出場を認めることは、将来に禍根を残すのではないでしょうか。

 別の言い方をすると、フィギュアスケート競技におけるジュニア選手の心身の保護を、現在の年齢制限よりも合理的に実現出来る対案が提出されない限り、年齢制限を解除することのリスクは、それによって得られるメリットより大きいという事です。

4-2:でも、浅田選手が出ないと、オリンピックの競技会としての価値が失われるんじゃないの?

 オリンピックは、そんなことで価値が上下するほど軽い競技会ではありません。

オリンピックを「誰が一番強いか決める場」と捉えるならば、そういう考え方も出来るでしょうが、フィギュアスケートにおいてはこの前提が妥当しにくい側面もあります。何故ならば、フィギュアスケートは採点競技であるが故に、誰が一番強いということを厳密には決められないからです。演技の結果として得点は出ますけれども、採点には若干の紛れがあるので、互角の実力を持つ選手がいずれも実力を出し切った演技をした場合、誰もが納得する形で勝負をつけられないのです。

 例えばジャンプの際のエッジの使い分け(ジャンプの種類が決まる)や、着氷までに何回転したかの判定は電子機器ではなく人間の目で行いますから、微妙なジャンプでは、ジャンプの種類の判定や回転数の認定に運が紛れ込みます。また、複数の審判の出した数字を乱数発生器でランダムにサンプリングして得点を計算するので、選ばれた数字次第で若干、得点が上下します。これも運です。さらにプログラムコンポーネンツと呼ばれる要素(スケート技術、要素の繋ぎ方の上手い下手など)は厳密な算出式に従って数値化するのではなく、やはり人間の印象による判断ですから、ここにも運が紛れ込みます。

 それでは、フィギュアスケートの競技会には意味が無いのでしょうか? そんなことはありません。明らかな実力差があれば明確に点差になって現れて来ますし、選手の調子によっても点数は上下します。もちろん転倒や回転数不足などのミスがあれば点数は下がります。つまり、実力同等の選手がともに同程度に実力を発揮するという局面以外では、ちゃんと「どちらがより良い演技をしたか」は点差として決まるのです。

 すなわち、フィギュアスケートの競技は「誰が一番強いのか」ではなく、「その競技会では誰が一番良い演技をしたか」を争うのです。競技会の権威が上がれば上がるほど、有力な選手が沢山エントリーしてきますから、自然、オリンピックや世界選手権で勝つということは「大きな名誉」になるのです(「最強の称号が手に入る」わけではありません。実力同等の選手の勝負は運が大きく作用しますから)。つまり、オリンピックというのは「最強の選手を決める」競技会というよりも、「開催数の少なさと出場選手の平均レベルの高さ故に最も勝つのが難しい大会で、誰が一番良い演技をするか試す」競技会なのです。

 「最強の選手を決める」大会であれば、浅田選手が出場しないことはその価値を大きく減じますが、フィギュアスケートの場合はむしろ、権威ある大会への出場を果たした選手たちが、その権威に導かれて最高の演技を見せてくれるのを楽しむ大会ですから、浅田選手の不出場が競技会の価値を決定的に損なうことは無いのです。浅田選手が出る、出ないに関わらず、出場した選手たちは持てる能力の限界に挑む演技を見せてくれるでしょう。結果として、トリノでもまた伝説として語り継がれるような名演がいくつも生まれるはずです。浅田選手がいるいないという程度のことで、名演の生まれる可能性は下がったりしないはずです。どちらにしろ選手たちは最高の集中力と情熱をもって演技に向かうのですから。

 フィギュアスケートに関してオリンピックが「最強の選手を決める」大会ではないという現状は、別の視点からも指摘することが出来ます。例えばオリンピックの開催周期である4年間というのは、選手あるいはチームの全盛期が継続する期間を超えうる程に長いものです。例えばペアの申雪・趙宏博組は、ソルトレイク大会の翌シーズンから全盛期に入りましたが、現在は故障の為に調子を落としてしまいました。そして、それと入れ替わるようにトトミアニーナ・マリニン組が世界選手権を連覇しました。ですから、むしろ「最強の選手を決める」大会に近いのは、毎年開催され世界選手権なのです。

 さらに言えば、現在の日本の女子シングルで浅田選手を除く上位5人よりも力の落ちる他国の代表選手を複数指摘出来ますけれども、そういった選手を出さない替わりに日本の選手を5人出せという主張は通りません。

 つまり、オリンピックはその出場機会の稀少さと、フィギュアスケートのファン以外にも世界中のスポーツファンの注目が集まるという規模の大きさ故に、フィギュアスケートの競技会の中でも特別な存在ではありますが、「フィギュア界最強選手を決める」大会だから特別な存在というわけではないのです。

4-3:しかし、今が真央の全盛期だとしたら、オリンピックに出られないのは可哀想だよ!

 まったくその通りです。ですが、浅田選手の今後の成長がどのようなものになるかは、未確定です。そのような可能性は、特例措置を認める根拠にはなりません。例えば、三文ドラマのように、浅田選手が不治の病に犯されていて余命いくばくもないというのであれば、敢えて特例措置を願い出る理由になるかもしれませんが。実際に浅田選手の力のピークが現在だったとしたら、それはフィギュアスケートという競技とオリンピックという特殊な競技会の関わりにおいて常に問題となる、「最高の実力者が必ずオリンピックの金メダルを取るわけではない」という、比較的ありふれた悲劇の例に新しいものがまた一つ付け加わるだけでしょう。残念ですが、それもまたオリンピックという競技会の価値の一部です。

 過去、伊藤みどり選手、カート・ブラウニング選手、エルヴィス・ストイコ選手、トッド・エルドリッジ選手、マリア・ブッテルスカヤ選手など、幾多の歴史的な名選手がオリンピックの金メダルと無縁なままに競技生活を終えました。現役選手では、ミシェル・クワン選手、イリーナ・スルツカヤ選手、エフゲニー・プルシェンコ選手らは、誰もが認める超一流の選手が選手としてのピークの時期にオリンピックに挑んだにも関わらず、金メダルを取れなかったのです。

 だからこそオリンピックの場は特別なものとなり、鬼気迫る伝説の名演が生まれるのかもしれません。

5:まとめ

・浅田選手がトリノに出られない理由を、浅田選手個人の心身の保護の問題として合理的に説明することはできないが、浅田選手を出さないことでフィギュアスケートという競技全体が得られる利得は、合理的に説明出来る。

・城田憲子さんは、色々と足りない所もあるが、日本フィギュアスケート界への貢献は大きなものがあるし、山田コーチへの嫌がらせの一環として浅田選手出場を求める嘆願書を出さないわけでもない。

・浅田選手がトリノ・オリンピックに出ないことは、トリノ・オリンピックの女子シングル競技の価値を大して損なわない。何故ならば、フィギュアスケート競技は「誰が最強なのか」を問題とするのではなく、「どの競技会で誰が良い演技をしたのか」を問題とするからである。

6:それでも納得いかない人へ

6-1:フィギュアヲタの言い分はわかったけれど、俺は納得いかない。

 理解していただけなくて残念です。ただ、これに懲りずに今後もフィギュアスケートを見続けていって欲しいものです。そうすれば、いつかヲタの意見が理解出来るかもしれません。

また、ヲタがさほど熱くなっていない理由として、上には上があることを知っている、という要素もあります。たしかにグランプリ・ファイナルでの浅田選手の演技は驚くべきものでしたが、フィギュアスケートの歴史の中には、あの演技を遙かに超え、まさに神がリンクに舞い降りたとしか思えないような、奇蹟の演技というべきものがいくつも存在しています。2003年世界選手権で申雪・趙宏博組が踊った「トゥーランドット」、2002年ソルトレイク・オリンピックでアレクセイ・ヤグディン選手が滑った「仮面の男」。アイスダンスでは1984年サラエボ・オリンピックでトービル・ディーン組が踊った「ボレロ」が、いまだに語りぐさとなっています。

そして、現在の浅田選手では、どう逆立ちしてもそのレベルの演技は不可能であり、グランプリ・ファイナルの演技が上限いっぱいだということも、ヲタどもはうすうすですが、感じています。浅田選手が順調に育てば、そのレベルの演技を見せるのも夢ではないということもね。想像してみてください。浅田選手の演技が終わらないうちから、満員の大観衆が総立ちでスタンディング・オベーションを捧げる光景を。何十年後までも、世界中で「俺はあの時、マオのあの演技を生で見たんだぜ。」と語り継がれるような伝説を作る可能性を、浅田選手は持っています。ヲタはそういう浅田選手をこそ、見てみたいんじゃないでしょうか。

にわかの皆さんも、いつかそんな神懸かり的な演技を目の当たりにしたときに、何故、ヲタどもが目先のメダルの可能性を捨ててまで、フィギュアスケートというこの素晴らしいスポーツの秩序を守る方を選んだか、わかるんじゃないかと思います。

6-2:じゃあ、陳情メールを出しまくれば何とかなるの?

 わかりません。未来は予測出来ません。ですが、比較的蓋然性の高い予想を紹介することは出来ます。

・日本スケート連盟に嘆願メールを送りつけたら、連盟は動くでしょうか?

 代表選手選出は今週末です。スケジュール上も、もう無理でしょう。ただ、最新のニュースでは、年齢制限制度の再検討を来年度の国際スケート連盟総会で議題にするかもしれないらしいですね。しかしそれはあくまでも来年度以降の話です。

・国際スケート連盟に嘆願メールを送りつけたら、何とかなりますか?

 国際スケート連盟は日本スケート連盟からの要請が無い限り、理事会も総会も開きません。

・首相官邸や文部科学省やJOCに嘆願メールを出したら、何とかなりますか?

 来年度予算編成の大詰めであるこの時期に、官邸が動くとは思えません。特にみなさんが期待している安倍官房長官は予算編成でも主導的な役割を任されていますので。文部科学省に出来るのは、助成金削減などをチラつかせて脅しをかけるくらいのことですが、文部科学省がそこまで浅田選手の問題を深刻なものと考えている節はありません。JOCは日本スケート連盟からの要請が無い限り動かないと言っています。

・これがアメリカなら、メディア総動員で国際スケート連盟に圧力をかけてもらえるのに!

 アメリカの世論がフィギュアスケートに対して奇妙な影響力を持っているのは、アメリカがアイスショーのメッカであり、そこから上がる収益がフィギュアスケート選手の強化にも役立っているからです(アマチュアのフィギュアスケート選手もオフシーズンにはアイスショーに出ています)。一方、日本ではフィギュアスケートはマイナースポーツです(その日本に現在これだけの陣容が揃っているのは、皆さんの嫌いな城田さんの手腕による部分が大きいと言えます)。産業としてのフィギュアスケートにとっては大した市場では無い日本の世論を国際スケート連盟が気にかけるとは思えません。

・真央さえ出せるなら、残り2枠は返上しても良いから、なんとかならないの?

 オリンピックの出場枠は、前年の世界選手権の結果で決まります。日本女子に3枠をもたらしたのは、安藤選手と村主選手です。有力な代表候補である彼女らの権利を剥奪してまで浅田選手をトリノに派遣することは、日本の女子シングルの将来に決して良い結果をもたらさないでしょう。

6-3:この悔しさをどこにぶつけたら良いんだ!

 くれぐれも日本スケート連盟に脅迫状を送りつけたり、ネットに愚劣な犯行予告を書き込まないようにお願いします。情熱はより建設的な方向に使いましょう。例えば、一律の年齢制限に替わる、フィギュアスケートという競技の発展をより合理的に実現しうる代替案を議論してみるというのはどうでしょうか? 現在の年齢制限は、ジュニア選手の心身の健康を守るという目的に対し、一定の効果を持っている制度ですが、これが最善の制度というわけではありません。現在の制度に不備があると考えるならば、その不備を克服しうるより良い制度を考えて、日本スケート連盟に提案することこそ、大事なのではありませんか?

6-4:つーか、その偉そうな口調がムカつくんだけど?

 ヲタというのはそういうものです。カンベンしといてください。


長文を読むのがめんどくさい人の為のFAQ

Q1:そもそもグランプリファイナルってどういう大会?

 フィギュアスケートのシーズン前半の国際競技会の総決算みたいなものです。フィギュアスケートの競技会は全日本選手権や全米選手権など各国の選手権試合を含む国内試合と、色々な国の選手が集まって競技を行う国際競技会に分けられます。国際競技会はさらに世界選手権やヨーロッパ選手権、四大陸選手権などの選手権試合と、通常の国際競技会に分けられますが、選手権試合ではない国際競技会の中では最も重視されるのが、グランプリ・シリーズと呼ばれる一連の競技会です。

 グランプリ・シリーズはフィギュアスケートが特に盛んな国で開催されるシリーズ戦で、今シーズンはスケート・アメリカ、スケート・カナダ、エリック・ボンパール・トロフィー(以前はラリック・トロフィー。フランス大会のこと)、中国杯、ロシア杯、NHK杯がこれに当たります(シーズンごとに試合の冠スポンサーが変わったり、開催国が変わったりします。以前はドイツ大会もありました)。グランプリ・ファイナルとは、シリーズ戦開催国の持ち回りで開催される、シリーズ決勝戦という位置づけです。言い換えるならば、グランプリ・ファイナルの優勝者とはグランプリ・シリーズに参加した選手の中で最も数多く良い演技をした選手・チームということになります。

 ここで注意したいのは、グランプリ・ファイナルの優勝者はあくまでもグランプリ・シリーズという範囲内で最高の成績を収めたものという位置づけだということです。「世界一」を名乗ることが許されるのは世界選手権に勝った人だけです。

 もちろん、浅田選手が今年の「世界一」であるスルツカヤ選手を、グランプリ・ファイナルという大きな競技会で上回ったのは、大変な名誉であり、浅田選手の恐るべき実力を示していますが、「世界一」を名乗れるわけではありません。

Q2: でも、安藤や中野には勝ってるけど?

 様々な状況から判断して、現状で既に浅田選手の力が安藤選手や中野選手を上回っているのは確実です。しかし、それは国際スケート連盟の立場から見れば、浅田選手が彼女らを押しのけて代表に選ばれる理由にはなりません。

Q3: 日本スケート連盟が陳情やゴリ押しをしたら、なんでオリンピックで不利になるの

 フィギュアスケートが採点競技であり、審判員がどんなに公正であろうとしても、不快な記憶を喚起される選手に対しては、無意識のうちに辛い点をつけてしまうからです。既に今年度の国際スケート連盟の総会は終わっているのに、後から有力選手が見つかったので、ルールを曲げて出して欲しいと言い出すのは、既に会計も済んでレシートとお釣りを渡しているのに、やっぱりもっと値引きしろと言い出すようなものです。それなら会計する前に値引き交渉してくれよとなります。ただでさえ日本女子の大躍進はやっかみの対象となっているのに、さらにわがままを言い出したら、取れるメダルも取れなくなります。ソルトレイク大会でスルツカヤ選手が金メダルを逃したのも、審判の微妙な判定が最悪の展開を引き起こした結果でしたね。

Q4: 海外のメディアも真央が出ないのはおかしいって言っているよ?

 海外のメディアだから正しいということにはなりません。アメリカの大手テレビ局が浅田選手の出場問題を採り上げていますが、穿った見方をすれば、どちらにしろ浅田選手は出てこれないし、クワン選手やコーエン選手、シズニー選手あたりのライバルである日本の選手団が内紛を起こしたり、日本代表選手がメンタル面で動揺すればもうけもの、のような打算もあるかもしれません。

Q5: じゃあ、もうどうしようもないの?

 唯一、日本に不利にならないシナリオは、日本以外の有力なロビー勢力(国際オリンピック委員会や米露中仏あたりのスケート連盟)が、国際スケート連盟に特例措置の検討を働きかけて(日本から言い出すとジャッジングの不利が怖いので)、国際スケート連盟の主導で特例措置が認められるというものです。

ただ、この場合でも、出場枠が現在の3枠のままなのか、あらたに1枠もらえるのかが問題になります。3枠のままだった場合、既に代表選手に選ばれた誰かを外さなければなりません。これは即ち、日本の選手団が火種を抱え込むということです。これをやれば、外された選手の競技生活や精神状態に取り返しのつかない打撃を与えてしまうでしょうし、日本スケート連盟はそういう筋の通らないことをする組織だという認識が選手たちの間に生まれます。そのように割り切れない思いを抱いたままオリンピックに出る代表選手が実力を出し切った演技をするとは思えません。

それに、トリノ・オリンピックが終わった後もフィギュアスケートは続きます。トリノで浅田選手が大活躍して大団円というわけにはいかないのです。3月には世界選手権がありますし、来年、再来年と、フィギュアスケートは続いていくのです。しかし、筋を通せない競技団体の取り仕切るスポーツは凋落しがちです(日本のプロ野球やセリエAを思い出してください。新日本プロレスも良い反面教師ですね)。

ですから、国外の勢力主導での特例措置成立と、3枠+1枠の確保。このシナリオ以外では、日本のフィギュアスケートにとって、浅田選手のトリノ出場は長期的に見てマイナスなのです。

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